プロフィール

幼稚園年少さんの時 心臓病が見つかる 大手術を受け、現在 とっても元気

入院中、大きなトラウマを抱える事となりました

幼稚園 年少さんの私がまず、

通されたのは

大部屋

ここで、ののは大きなトラウマを作る事となる。

人口呼吸器が付けられた、植物状態の彼は、推定、18歳〜20歳

いつも、お見舞いに両親が来てた。

純粋に、羨ましかった。

なぜ?羨ましかったかって…

人工呼吸器を付けている彼の親が毎日来る事が、羨ましかった

いつも彼に話し掛けてくれるご両親

小さいながらに

すごく、羨ましかったな。。。

そばで、話しかけて貰ってる彼が本当に本当に羨ましかった

当の私の親は?と言うと

入院から、数日間は母親が一緒に泊まってくれたらしいが、全く記憶に無い。

ただ、覚えている事は

母親が、

「あの、このボンボンベッドだと、身体が痛いから眠れないし、疲れるから、お母さん夜帰って良い?もう大丈夫よね?」

のの「うん。大丈夫だよ。お母さんごめんね身体痛かったね」

母にこの言葉をかけたのは、覚えているから、

母は付き添って、数日間は泊まっていてくれたのだろうと思える

母が夜居なくなってからは、地獄だった

昼間は、他人の声、音にかき消されてた、気にならなかったんだ

植物状態の彼の呼吸

「ゔー」  痰の絡む音  

人口呼吸器の異常音

もがき、苦しむ声 

看護師が処置する音

毎晩、毎晩、夜が怖った

両親が居ない夜 怖い音がする夜

怖くて怖くて、眠れなかった

小さな身体でベッドの中で、一人震えていた

入院する前に、近所のおばさんがくれた、オルゴールの入った人形

枕元に置いて一緒に寝てた

怖い音が聞こえないように

怖い音がかき消される事を願って

オルゴールのネジを目一杯回して回して。。。

オルゴールの人形を

一生懸命耳にギューっと押し付けて、寝た

それでも、怖くて

毎晩寝れなかった。

たまに来る、父親

その頃は、

仕事が忙しかったそうな。

「帰らないで」なんて言えない。

言ったらお父さんに迷惑になると、思ってた。

今40代になっても、4歳の時の記憶は鮮明に蘇る。

30代になって、両親に聞いた

のの「あの時は、忙しかったの?」

母「あの時は、忙しかったねーお父さん。」

父「そうだね。人生で1番忙しかったなぁ」

うん。

そうじゃない。

何十年も前の話かもしれないけど

私に、謝るべき。

「あの時、一緒に居られなくてごめんね」

この言葉だけで

そのたった一言で

私は多分、許せる

トラウマから解放されるはず

手術後の、カテーテルを抜くときも、

一人だった。

体内に入っているカテーテルを無麻酔で抜くわけです。

激痛 

内臓をえぐられる感覚

今でも思い出せる痛み

ベッドに自分の、血しぶきが飛んだのを見た。

その血しぶきは、あの耳にギューって押し付けた、オルゴールにも、飛んでしまった…

母親は、部屋の外で待ってた

もう、この頃には私は、

辛い時、手を握ってくれる人が居ないと悟った

たとえ家族でも。。。

4歳の秋に、自分が辛い時に手を握ってくれる人は いないんだって。

そう悟った。

現代社会は、仕事!仕事!仕事!

コロナのお陰で、風邪っぽかったら出社しないでくれ。

そんな世の中になれたけど

まだ、介護休暇、男性の育児休暇は取れない。

一昔前は、這ってでも会社に来い!

そんな風潮でしたね。

私はこんな幼少期の入院経験もあり、自営業になった

いや、絶対に自営業に、なりたかった。

大切な人が困っている時はすぐに助けられる仕事。

困っている人がいたら、すぐに手を握ってあげられるような働き方をしたいと。

 

父のようには絶対に、絶対になりたくないと、思った

会社、社会が憎かった

4歳の秋

こんな経験をした、4歳の私は

30代で、甲状腺機能亢進症(バセドウ氏病)を患い

目の前に三途の川に、片足を突っ込んでしまいました…

バセドウ病ってね、自分で言うのもヘンだけど

「頑張り屋さん」がなる病気だって。                         やっと、気付いた時 この4歳の時の                         入院のトラウマがきっかけで                            「頑張り屋さん」になってしまったんだ。と 気付けた

頑張り屋さんって、最後は  病気になってね  頑張った事が仇となって、 死んじゃうんだよ

経験者の私が、今 頑張りすぎている、皆様に何か、お伝え出来れば、と思い、日々ブログに書き記しております。


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